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家にいながら「出家」する、という「晩年」もあり

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 晩年の哲学   14 

修行僧 損得に流され、競争原理に身をさらし、
愛と憎しみの狭間で揺れ動く。
そんな俗世間の煩悩に振り回される人生を
そろそろ考え直してみようか?
人生も「晩年」の域にさしかかると、
そんなことを考え始める人もいようかと思います。
そんな人たちに注目されているのが、
「出家」してみるという考え方です――。




 女優の清水富美加が「宣言」して、ちょっと、世間の注目を浴びることになった「出家」という言葉。
 そもそも、「出家」とは何よ――と思った方も多いのではないかと思います。
 「出家」とは、本来は、俗世間との関わりを捨てて、得度して僧形(そうぎょう=剃髪して僧服に身を包む)となり、仏門に身を投じることを言います。キリスト教だと、修道院などに入って修道士、修道女として、「キリストに従って生きる」を徹底させるというのが、それに当たるかもしれませんが、これを「出家」というふうには考えないようです。
 なので、ここでは、仏教に限って話を進めたいと思います。
 「出家」の反対語は、「在家(ざいけ)」です。「在家」とは、「俗世間に身を置いたまま」を意味する言葉です。
 「出家」であろうと、「在家」のままであろうと、仏門に入ることはできます。そのために必要になるのが、「得度(とくど)」というプロセスです。

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「仏の教え」に従う誓いを立てる「得度」というプロセス

 「得度」というのは、損得、愛憎、勝ち負けなどの煩悩に振り回される「迷いの世界」から、「仏の生き方」を拠り所とする「悟りの世界」へと渡ることを言います。「この世的な物差し」を捨てて「悟りの物差し」を身に着けるために、師となる僧の教えを受け、「仏弟子」となる誓いを立てること。それが「得度」の意味です。
 宗派によって違いはありますが、この「誓い」には、次の要素が含まれます。

 まずは、「帰依(きえ)」。
 「帰依」とは、「教えを信じて身を任せる」という意味ですが、任せる対象は「仏=仏陀」「法=仏陀が示した教え」「僧=信仰の仲間」の「三宝」とされ、これを「三宝帰依」と言います。「得度」にあたっては、この「三宝」に帰依します――と、誓いを立てるわけです。

 次に、「戒律」を守るという誓いを立てます。
 何を「戒律」として重視するかは、宗派によって違いますが、一般的に知られているのは、「五戒」と呼ばれる次の5つの戒めです。

仏教徒が守るべき5つの戒め=「五戒」
不殺生戒(ふせっしょうかい)……生きものを殺さない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)……与えられないものを盗らない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい)……夫婦でない関係で性交渉をしない。
不妄語戒(ふもうごかい)……嘘をつかない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい)……酒におぼれない。

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テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

「終わり」を予知しているからこそ、「いま」が美しい

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 晩年の哲学   13 

哲学先生 
あらかじめ「死」を予定に組み込むことができる
唯一の生きもの、それが人間です。
「死」を予定した上で「いま」を生きる。
ほんの束の間にすぎない「いま」という時間を
人は、何のために生きればいいのでしょう?




 「数値、高いですねェ」と、医者は言うのである。
 「このマーカーの数値は、ガンである確率が50%という数字です。私は、生体検査をお受けになることをお勧めしますがね」
 まだ若いその医者は、努めて冷静に、血液検査のデータを解説してみせた。
 不思議なことに、驚きもしなければ、動揺もなかった。
 で、その検査とやらを受けて、悪性の腫瘍が見つかったとして、どうするわけ?
 腫瘍を切除して、抗がん剤やらなんやらでガンと闘って、5年やそこら、寿命を延ばして、それで……「ああ、よく闘った」と満足して、結局は死ぬ?
 そんなことに意味があるのか――と、心底思うので、「ま、一応、考えてみます」とだけ答えて、病院を後にした。

 あ、これ、つい最近の話です。
 どうも、夜中にトイレに立ちたくなる。「やれやれ、歳だな。夜間頻尿かよ」と思っていたら、そのうち、その尿がなかなか出てこなくなった。尿意はあるのに、いざ、トイレに立っても、尿はポタポタ……という感じでしか出ない。
 いわゆる「排尿困難」ってやつだな――と、エコーで検査してみたら、ご多分にもれず、見事な「前立腺肥大」。そのときの血液検査で、マーカーの数値が高いという結果が出て、前出の医師の診断となったわけです。
 その肥大がガンによるものであるかどうかを調べるために、大腸から針を刺して組織を採取し、生体検査をしてみてはどうか――と、医師はしきりに勧めるのですが、私には、あわてて検査を受ける気は、ショージキ、ほとんどありません。
 ガンならガンでもいいや――というのが、正直な気持ちです。
 強がっているのでも何でもありません。
 高齢者と呼ばれるこの年齢まで生きてきた身としては、いつどうなっても、「そろそろいいんじゃないか」と思ってもいるからです。

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「死」を予定に組み込むことのできる唯一の存在=人間

 つまらない話をお聞かせしてしまいましたが、実はこれ、私の死生観にも関わる話なんですね。私は、こう思っています。

 人とは、いつか死ぬために、
 束の間の一生を与えられて生まれてくる生きものである。


 たとえ60年しか生きなかったとしても、85年生きたとしても、それは「束の間」にすぎない――と私は思っています。
 「人」とは何か――と問われたら、私は、間違いなくこう答えるでしょう。

 人というのは、自分が死ぬことをあらかじめ承知した上で、
 「生きる」ことを考えることのできる、地上唯一の存在である。


 「死」をあらかじめ自分の予定に組み込むことができる――というのは、人間の特典。それが5年や10年、早くなろうが遅くなろうが、恐れたり悲しんだりする必要はないじゃないか、と筆者は思うわけです。

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「神様」を探してはいけない

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 晩年の哲学   12 

哲学先生 もうすぐ、2016年に別れを告げます。
年が明けたら、各地の神社や仏閣に、
初詣に出かけようか――と考えている人も
いるのではないかと思います。
水を差すわけではありませんが、
私は、この初詣があまり好きではありません。




 「初詣」というのは、年が変わるという人間側の都合に合わせて、「神様」を感じてみようか――という行為です。
 中には、「今年はどこにお参りに行こうかね?」「おまえの受験もあるから、天神さまにお願いに行こうか?」「それより、お父さんの病気のこともあるから、大師さんがいいんじゃない?」などと、祈願の目的に合わせて、神社やお寺を選ぼうとする人もいるかもしれません。
 別に、それにケチをつけようなんぞという気は、毛頭ありません。季節の節目に、「神仏を感じてみよう」という行為は、それはそれで、日本人の精神と風土に合った行動スタイルとして尊重に値すると、私も思っています。
 しかし、これらはすべて、人間側からのはたらきかけにすぎません。そのときの気分や都合に合わせて、「神を選ぶ」という人間的な行為にすぎないと思うのです。
 それでは、「神や仏」の側からのはたらきかけを受けて、深い知恵を授かる、人生の意味について何かを悟らされるということにはならないだろう――と、支配人・長住は思います。

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人が神を見つけるのではなく、神が人を見つけるのである

 よく、こんなことを尋ねる人がいます。

  神様っていると思う?
  どこにいると思う?

 最近は、「パワースポット」なんてものが流行って、そういう場所に出かけては、「神様」を感じて来ようとする人もいます。
 しかし、私は、「神様を探そう」という人も、「探す」という行為も、あまり好きではありません。
 「神」は、人が見つけるものではない――と思っているからです。
 考えてみてください。
 もし、「神」が「人」によって発見されるのであれば、言い方を変えると、「人」が見つけなければならないような「神」であれば、そんな「神様」は、「人以下」ということになってしまいます。
 そんな「神様」なんて、ありがたくもなんともない。私は、こう思っています。

 「神」というのは、この世界に満ち満ちているもの。
 人がどこにいようと、何をしていようと、
 絶えず私を見守り、導こうとしてくれる、
 そういう存在である。


 「神」と「人間」の関係で言うと、

 人が神を見つけるのではなく、
 神が一方的に人間を見つける。


 そういう関係だと思うのです。
 「神様を探す」というのは、「神様」の立場から言えば、たいへん、失礼な話なわけです。

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テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

「明日でいいこと」は、今日するな!


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 晩年の哲学   10 

哲学先生 
心静かに「晩年」過ごそうとするとき、
それを妨げるものに「後悔」があります。
「これもやらなかった、あれもやらなかった」
そんな後悔を眠りに就かせるには、
「ねばならない」から自由になる必要があります。




 「今日」をやさしく終わりにしようとするときに、立ち現れる「後悔」という魔物。
 このシリーズの第6回『天国には連れていけない「イヤな自分」の眠らせ方』では、「イヤな自分」という後悔の話をしましたが、「後悔」には、もうひとつ、やっかいなヤツがいます。
 それは、「あれも、これも、やらなかった」という後悔です。
 この「やり残したこと」が気になり始めると、なかなか眠ることができなくなります。
 筆者などは、ガバッとはね起きて、「やっぱり、やっとくか」と机に向かったりするのですが、しかし、もう寝ようか――という状態から仕事に向かっても、大した仕事はできません。ただ、いたずらに脳が疲れるだけです。

 なぜ、「やり残したこと」があると、眠れなくなるのか?
 ひとつには、「性分」があろうかと思います。「貧乏性」という性分です。
 「これだけやったんだから十分」と考えるのではなく、「もっとやれるはずなのに、これだけしかやらなかったなぁ」と考えてしまう性質で、これも筆者は、「悲観主義」の一種だと思っています。
 この「悲観」を生んでしまうのは、「××すべきである」というものの考え方ではないか――と、筆者はニラんでいるのですが、さて、この考え方はどこから出てくるのか?

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「貧乏性」が「今日」を息苦しくする

 かつて、筆者が学んだ英語の構文に、こういうのがありました。

  Don’t put off till tomorrow what you can do today.

 おそらく、中学校の英語の教科書に出てくるおなじみの構文だと思うのですが、直訳すると、こういう意味です。

 「今日できることを、明日に伸ばすことなかれ!」

 筆者・長住も、どちらかというと、そんなふうに考えるタイプでした。
 楽観主義者のくせに、「なすべきこと」に関しては貧乏性で、「今日できること」どころか、「明日でいいこと」も、「2日後でいいこと」も、「今日のうちにすませておこう」と考えてしまうような性質を持っていたんですね。
 ところが、こういう性質を「おまえ、それ、止めたほうがいいよ」と忠告してくれた人がいました。

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テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

戒める神、赦す神、得する神。信じるのは、どの神?





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 晩年の哲学   09 

哲学先生
「神」や「仏」には、3タイプあります。
ひとつは、厳しく戒める神・仏、
ひとつは、すべてを赦す神・仏、
そして、もうひとつは、何やら得する神・仏。
あなたは、どの神仏を信じますか?




 みなさんは、「」とか「」を信じていますか?
 「信じる」という言い方は、おかしいかもしれませんね。
 「信じる」と言うと、「神」や「仏」が、人間の「信じる」という行為によって発見される、ということになってしまいます。「神」や「仏」にとっては、たいへん失礼な話だろう――と、私は思います。
 人間が信じようが、信じまいが、お参りしようが、しまいが、時・場所かまわず、ずっとそこに存在する。
 それでこそ、「神」であり、「仏」である――と、わたくし・長住は確信しています。
 もし、あなたの周りに、「おまえは信心が足りないから、そういう目に遭うんだ」などと口にする人間がいたら、間違いありません。そういう人間は、詐欺師の一味であり、そういう人間があなたに薦める「神」や「仏」は、あなたを騙そうとして造り上げられた「まがい物」に違いありません。

 ということを、まず頭に入れた上で、今回は、その「神」「仏」の話をしてみようと思うわけです。
 そんなもの興味がないという人もいるかもしれません。そういう人は、どうぞ、エロいゲームでもやって、一発、屁をこいて、白川夜船しちゃってください。
 でも、そうではない人には、まず申し上げておきたいことがあります。
 「神」にも、「仏」にも、いろんなタイプがいる――ということをです。
 厳密に言うと、「いろんなタイプがいる」のではなく、「神」や「仏」を語る語り方に、いろんな流儀がある、ということです。
 大きく分けると、その流儀には、3つのタイプがあります。

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厳しく戒律を守らせる「戒める神」

 まず、第一のタイプ。
 それは、「戒める神」または「戒める仏」です。
 「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」と人間の行動や欲望を戒め、それを守らないと救われないゾ――と諭す厳しい神や仏です。
 これらの戒めは、「戒律」として、各宗派ごとにまとめられていますが、その内容は、宗派によって微妙に違っています。

酒もダメ、タバコもダメ――と戒める宗派もあります(イスラム教など)。
結婚もダメ、恋愛もダメ――と戒める宗派もあります(一部の仏教など)。
食べてはいけないものが厳密に定められている宗派もあります(ユダヤ教イスラム教一部の仏教など)。

 宗派による違いはありますが、天国に迎えられたり、成仏したり、往生したりするためには、厳しい戒めを守らなくてはなりません。つまり、こうした宗教の世界では、救われるためには、人間の側の努力が求められるわけです。
 努力して戒めを守った人間だけが救われることから、仏教の世界では、こういう戒律を持った宗派を「自力本願」と呼び、その努力ができるエリートの宗派ということで「聖道門(しょうどうもん)」と呼んだりもします。
 戒律を守るのには、それなりの精神力が求められます。
 それが達成できたときには、すがすがしい気持ちになれますし、精神的に一段高いステージに立てたような気にもなれます。
 しかし、逆の場合もあります。
 戒律を守れなかった、あるいは求められている修行が達成できなかった――となると、「やっぱり、自分はダメな人間だ」と落ち込んだり、自分を否定する気分になったりする人も、いるかもしれません。
 「戒める神や仏」は、厳しく自分を律したいという人には、常にその存在を気にかけていなくてはならない厳しい神であり、仏であり、そのぶん、「日常の心の張り」ともなる存在ですが、挫折感や罪悪感を抱えた人は、余計に苦しみを抱え込むことになるかもしれません。

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テーマ : 生き方
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