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戒める神、赦す神、得する神。信じるのは、どの神?





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 晩年の哲学   09 

哲学先生
「神」や「仏」には、3タイプあります。
ひとつは、厳しく戒める神・仏、
ひとつは、すべてを赦す神・仏、
そして、もうひとつは、何やら得する神・仏。
あなたは、どの神仏を信じますか?




 みなさんは、「」とか「」を信じていますか?
 「信じる」という言い方は、おかしいかもしれませんね。
 「信じる」と言うと、「神」や「仏」が、人間の「信じる」という行為によって発見される、ということになってしまいます。「神」や「仏」にとっては、たいへん失礼な話だろう――と、私は思います。
 人間が信じようが、信じまいが、お参りしようが、しまいが、時・場所かまわず、ずっとそこに存在する。
 それでこそ、「神」であり、「仏」である――と、わたくし・長住は確信しています。
 もし、あなたの周りに、「おまえは信心が足りないから、そういう目に遭うんだ」などと口にする人間がいたら、間違いありません。そういう人間は、詐欺師の一味であり、そういう人間があなたに薦める「神」や「仏」は、あなたを騙そうとして造り上げられた「まがい物」に違いありません。

 ということを、まず頭に入れた上で、今回は、その「神」「仏」の話をしてみようと思うわけです。
 そんなもの興味がないという人もいるかもしれません。そういう人は、どうぞ、エロいゲームでもやって、一発、屁をこいて、白川夜船しちゃってください。
 でも、そうではない人には、まず申し上げておきたいことがあります。
 「神」にも、「仏」にも、いろんなタイプがいる――ということをです。
 厳密に言うと、「いろんなタイプがいる」のではなく、「神」や「仏」を語る語り方に、いろんな流儀がある、ということです。
 大きく分けると、その流儀には、3つのタイプがあります。

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厳しく戒律を守らせる「戒める神」

 まず、第一のタイプ。
 それは、「戒める神」または「戒める仏」です。
 「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」と人間の行動や欲望を戒め、それを守らないと救われないゾ――と諭す厳しい神や仏です。
 これらの戒めは、「戒律」として、各宗派ごとにまとめられていますが、その内容は、宗派によって微妙に違っています。

酒もダメ、タバコもダメ――と戒める宗派もあります(イスラム教など)。
結婚もダメ、恋愛もダメ――と戒める宗派もあります(一部の仏教など)。
食べてはいけないものが厳密に定められている宗派もあります(ユダヤ教イスラム教一部の仏教など)。

 宗派による違いはありますが、天国に迎えられたり、成仏したり、往生したりするためには、厳しい戒めを守らなくてはなりません。つまり、こうした宗教の世界では、救われるためには、人間の側の努力が求められるわけです。
 努力して戒めを守った人間だけが救われることから、仏教の世界では、こういう戒律を持った宗派を「自力本願」と呼び、その努力ができるエリートの宗派ということで「聖道門(しょうどうもん)」と呼んだりもします。
 戒律を守るのには、それなりの精神力が求められます。
 それが達成できたときには、すがすがしい気持ちになれますし、精神的に一段高いステージに立てたような気にもなれます。
 しかし、逆の場合もあります。
 戒律を守れなかった、あるいは求められている修行が達成できなかった――となると、「やっぱり、自分はダメな人間だ」と落ち込んだり、自分を否定する気分になったりする人も、いるかもしれません。
 「戒める神や仏」は、厳しく自分を律したいという人には、常にその存在を気にかけていなくてはならない厳しい神であり、仏であり、そのぶん、「日常の心の張り」ともなる存在ですが、挫折感や罪悪感を抱えた人は、余計に苦しみを抱え込むことになるかもしれません。

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人間は赦されているとする「赦す神」

 対称的なのは、「赦す神」「赦す仏」です。
 こちらの「神」や「仏」は、人間の努力を「相対的なもの」としか見ません。

 人間がどんなにガンバったところで、神や仏の域にまで達することなどできない。
 だから、ただ、祈って救いを求めなさい。
 そうすれば、あなたたちは赦されて、神の国に迎え入れられるだろう。
 極楽浄土に往生できるであろう。


 そんなふうに教えられる「神」「仏」です。
 キリスト教(特にプロテスタント)や一部の仏教(浄土真宗)などは、「神」や「仏」をそういうものだとして教えます。
 本人の努力によって救われるのではなく、「神」の愛や「仏」の慈悲によって、一方的に救われるので、仏教の世界では、「他力本願」と呼ばれる信心のあり方です。
 むしろ、こちらの「神」や「仏」の前では、「私は、こんなに修行しました」とか「私は戒律を守って清く正しい生活をしています」という自負は、救いの妨げになるとさえ言われます。
 大事なのは、自分の無力さや罪深さに気づいて、「こんな私を救ってください」と、神の愛仏の慈悲にすがる謙虚さなのですね。キリスト教の始祖であるイエスも、浄土真宗の親鸞も、似たようなことを言っています。

私が来たのは、「善人」を招くためではない。「罪人」を招くためである。
 ――イエス
「善人」でさえ往生するのだから、「悪人」が往生できないわけがない。
 ――
親鸞

 イエスが「罪人(つみびと)」と呼んでいるのは、「自分は罪深い人間です」と自覚している人間のこと、親鸞が「悪人」と呼んでいるのは、「自分はわるいことばかりしている人間だ」と自覚している人間のことです。
 「オレはわるいことなんかしていない」と正義ぶっている人間よりも、「私は罪深い人間です」と自覚して赦しを乞う人間のほうが、救いに近い――と言っているわけです。
 だれもが救われるという意味では、私は、こちらのほうが安心して生きていける気がします。ただし、日々の暮らしを戒める戒律がないぶん、日常の生活の中では、神や仏の存在を忘れてしまうこともあるかもしれません。

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都合よく信じられる「得する神」

 第3は、都合のいい「神」や「仏」です。
 「都合がいい」というのは、「信じていれば何かいいことがある」という「利益期待」の心情がはたらく――ということです。
 「利益」の中には、「良縁が見つかる」もあるかもしれません。「お金がもうかる」もあるかもしれません。中には「病気が治る」もあるかもしれません。
 それらは、一般に「ご利益(ごりやく)」などと呼ばれます。
 しかし、「ご利益」があると言われる「神」とか「仏」とかは、単に、人間の欲望を反映させただけの幻影にすぎない――と、私は思います。少なくとも、人間の生と死を超越する存在として、私たちの精神を深遠な世界に導いてくれることは、まったく期待できません。
 言ってみれば、単なるラッキー・アイテム
 信じようが信じまいが、それは、個人の自由ですから、どうぞご勝手に――ですが、そんな神仏に心を委ねようという気には、少なくとも、私はなれそうもありません。

支配人の近著です

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