スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「老いゆく日々」は、「願う」よりも「祈って」過ごす

バナー小

 晩年の哲学   08 

哲学先生 「晩年」とは、
願っても叶えられることが少なくなる日々です。
それでも願い続けていると、
叶わない願いに不満だけが募っていきます。
私は、祈ります。ただ、
過ぎ行く日々が、平穏でありますように――と。





 愛は願いではなく、
 愛は祈りのようだね


 ひと昔前、「いいちこ」のコマーシャルで流されたこのフレーズ、頭にこびりついている人も多いのではないかと思います。ビリー・バンバンの曲で、『愛は祈りのようだね』とタイトルがついています。
 エッ、どんな曲だっけ――ですか?
 参考までに、こんな曲でした。――You Tubeより



 歌詞の「愛は願いではなく……」の前に、「愛しても愛しても 愛しつくせやしない」とあるのですが、これが、「愛が《願い》ではなく《祈り》のようだ」の理由となっているように聞こえます。
 ところで、この曲を聴いた人の中には、こう思った人もいるのではないか、と思います。

 エッ、「願い」と「祈り」……?
 どこが違うっていうの?


 違うんですねェ、これが――という話を、今回はしてみようと思います。そして、この違いを悟ることが、心豊かに老後を過ごすためには大切。そんな話をしてみようかと思います。

続きを読む

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

「復活」を信じる文化と「生まれ変わり」を信じる文化

バナー小

 晩年の哲学   07 

哲学先生 死んだら、私たちはどこへ行くのか?
これについては、世界には、
まったく異なる2つの考え方が存在します。
死んでも「復活する」という文化と、
「来世」に「生まれ変わる」という文化です。
あなたは、どっちを信じますか?




 あなたは、こんなことを考えたことがありませんか?

 もし、この肉体が滅んでしまったら(つまり、死んでしまったら)、
 この肉体に宿った「わたし」という人間は、その魂は、
 どうなってしまうんだろう?


 支配人・長住は、子どもの頃から、そんなことばかり考えて、親や教師に尋ねたりもしましたが、返ってきたきた答えは、「そんなつまらんことば考えんで、勉強せんか!」(父親のひと言。九州弁です)でした。
 ムリもない。これには、答えがないんですね。
 あのお釈迦さまでさえ、マールンクヤという弟子に同じことを尋ねられたとき、「そんなことはわからん」と答えました。
 
 死んだあとのことなど考えて、どうするつもりだ?
 それよりも、いまをどう生きるかを考えなさい。


 というわけです。
 儒教の始祖・孔子もこう言っています。

 いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや。

 いまだに生きていることの意味さえわからないのに、どうして死んだ後のことまで考えられようか――という意味です。
 言われてみれば、おっしゃるとおり――と思います。
 とはいえ、気になりますよね。死んだ後も、自分は「自分」でいられるのだろうか?
 実は、これについては、世界には2通りの考え方があります。

女の子アイコン2 「前世」「来世」を信じる「生まれ変わり」の世界

 よく、私たちは、「来世」とか「前世」という言葉を使います。
 生まれる前には、どこか別の世界でまったく別の命を生きていた(=前世)し、死んだ後も、どこか別の世界に行って、まったく別種の命を生きることになるかもしれない――というわけです。
 「別の世界」は、もしかしたら、甘い香りの漂う「天国」かもしれない。しかし、もしかしたら、ゴキブリやミミズになって地を這い続ける「畜生」の世界かもしれない。
 どの世界に生まれ変わるか――を決めるのは「最後の審判」で、その裁判長を務めるのは、みなさんご存じの「閻魔大王」です。
 この世で「いい行い」を重ねれば、「天道」「人道」などの「いい世界」に転生できるが、「わるい行い」を積むと、「地獄道」などの「わるい世界」に生まれ変わるゾ。
 日本では、子どもの頃からそう教えられて育った人も多いかと思います。

続きを読む

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

天国には連れて行けない「イヤな自分」の眠らせ方

バナー小

 晩年の哲学   06 

哲学先生 眠りに就こうとする私を
邪魔しにくる者がいます。
それは、「後悔」とともに現れてくる「イヤな自分」。
そんな自分は「後悔」ともどもスリープさせないと、
安眠はおろか、安心して永眠もできません。
さて、どうするか?




 「後悔」には、いろんな種類があります。
 「あれもやらなかった」「これもやらなかった」が、「後悔」となって胸を苦しめる人もいるかもしれません。「達成感」を求めるタイプの人たちに多い「後悔」です。
 逆に、「イヤなことをやってしまった」「ひどいことを言ってしまった」という「後悔」に苦しむ人もいるかもしれません。
 そんな後悔が、後から後から押し寄せてきたのでは、安らかに「永眠」することはできません。「永眠」はおろか、日々の「安眠」も得られないに違いありません。
 もともと、達成感になどあまりこだわらないタイプで、どちらかと言うと「楽天家」をもって任じる支配人・長住ではありますが、それでも、ある夜、ふと何かの後悔が頭の中に浮かんでくることがあります。いったん、その後悔が頭の中で一定の領域を占めると、それはどんどんふくらんでいき、さらにそこへ、他の後悔までが湧いて出て、脳は「後悔モード」一色。こうなると、もう眠れなくなってしまいます。
 さて、そんなときはどうするか――です。

男アイコン1
イヤな「後悔」は、「言語化」されて左脳に現れる!

 後悔の程度が軽微であれば、私は、「ま、いいか」と頭の中の「後悔」を軽く鼻息で吹き飛ばし、「それよりも、明日会う○○ちゃん、美人だといいな」などと、「明日のいいこと」を考えます。この程度で、脳の中に芽生え始めた軽微な「後悔」は、だいたいは、どこかへ飛んで行ってくれます。
 しかし、この程度では、消えてくれない後悔もあります。
 私の場合、いちばんやっかいなのは、

ああ、あの日、あのとき、あの場所で、何であの人に、あんなことを言ってしまったんだろう?
ああ、なんで、あの大事なときに、あんなことをやっちまったかなぁ?

 といった種類の後悔です。それも、自分の人生に決定的な意味を持つことになったような場面での、発言や行動、あるいは行動しなかったこと――についての後悔。
 この手の後悔は、放っておくと「自己嫌悪」という手強い魔物に育ってしまいます。

続きを読む

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

「してやった」は、心に「負の遺産」を貯める

バナー小

 晩年の哲学   05 

哲学先生 
「ありがとう」と心やすらかにこの世を去るか、
それとも、「チクショウ」と呪いながら去るか?
それを決めるのは、心の遺産のありようです。
しかし、私たちは、知らないうちに「負の遺産」を
貯めてしまう言葉を使ってしまいます。それは――。




  あの人には、いろいろしてやったのよぉ。なのにさぁ……。
  ああ、あいつねェ。面倒みてやったんだよなぁ、いろいろと。それがよぉ……。

 みなさんは、心の中でこんな言葉を口にしたこと、ないでしょうか?
 今回、取り上げるのは、ここに登場する「してやった」という言葉です。
 もし、あなたの心の中に、この「してやった」という気持ちが潜んでいると、そういう心は、けっして「平安」を得ることはできない。その「平安」を得られないまま、終焉を迎えることになる――という話をしてみようと思います。

女の子アイコン2 「してやった」が求めるのは、心の「報酬」

 なぜ、「してやった」という気持ちがあると、心は「平安」を得られないのでしょうか?
 「××してやった」は、常に、「報酬」を求めるからです。
 「報酬」と言っても、別に、金銭や物品を要求するわけではありません。求めるのは、「感謝」という報酬です。
 私は、人に「感謝」を求める心ほど、あさましいものはない――と思っています。
 もちろん、感謝されることはうれしいんですよ。しかし、それは、何かをしたことの結果として、思いもかけず返ってくるものであって、期待するものではない。
 私は、そう思っています。
 ところが、「してやった」を口にする人たちは、その「期待してはいけないもの」を期待してしまうんですね。そして、その期待が裏切られてしまうと、口の中で、あるいはあからさまに口に出して、こう言います。

  まったく、あんなにいろいろしてやったのに、ありがとうのひと言もないんだから。

 こういう心は、たぶん、救われない。
 100年生きても、1000年生きても、救われない。
 私は、そう思っています。

続きを読む

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

人の寿命は「定期券」か、それとも「回数券」か?

バナー小

 晩年の哲学   04 

哲学先生
どんな動物も、一生のうちにできる呼吸の回数は、
ほぼ、一定なのだそうです。
速く呼吸する動物は、その回数を早く使い切り、
ゆっくり呼吸する動物は、ゆっくり使い切る。
寿命は、その回数に制限されて決まるらしいのです。




 人の一生の長さは、何によって決められるのでしょう?
 たとえば、人は、「20xx年Y月Z日まで」と書かれた定期券を持っているようなものなのでしょうか?
 それとも、「残り○○枚」と表示される回数券を持っているようなものなのでしょうか?
 どうも、それは「回数券」らしい――というのが、生物学や分子生物学、細胞遺伝学、栄養学などの立場からの結論のようです。

男アイコン1
人生は50-70枚綴りの回数券である……?

 「回数券説」のもっとも大きな根拠となっているのは、「細胞分裂の回数には限界がある」とする説明です。
 人をはじめとする生物の組織は、細胞によって構成されています。この細胞が分裂=増殖を繰り返すことで、生物はその細胞をリフレッシュし、正常な状態に保つのですが、その分裂は、何度でも無限に繰り返されるわけではありません。
 無限に分裂する細胞もあるのですが、それは「ガン細胞」だけです。
 なぜ、分裂回数に限界があるのかというと、生物の染色体端末についている「テロメア」と呼ばれるパーツが、分裂のたびに短くなっていくからです。
 ご存じのように、細胞が分裂するときには、染色体上のDNAが複製されます。複製の際にコピー・ミスが起こらないようにするために、DNA端末には、言ってみれば「ノリシロ」のような部分がついています。そのノリシロが「テロメア」です。「テロメア」は、DNAが複製されるたびに、その長さが半分近くに短縮されてしまいます。
 分裂を繰り返すたびに、半分そのまた半分と短くなっていき、最後には、「もうこれ以上、短くなれない」という限界点に達します。そうなると、細胞は分裂を停止します。分裂を停止しても、細胞はそのまま生き続けられるのですが、ただ、この細胞は「老化した細胞」です。あとは、この「老化した細胞」を大事に大事に使って生きていくしかないのですが、当然のことながら、それにも限界があります。

 では、この分裂回数はどれくらいか――というと、だいたい「50-70回」ぐらい。
 問題は、この分裂の頻度です。細胞は、その組織にダメージを受けたりすると、そのダメージを修復するために分裂します。また、栄養が過剰であると分裂の速度は速くなりますし、活性酸素などで傷を受けても、分裂の速度は上がります。
 ごく大雑把に言うと、

 激しく体を使ってダメージを受けるほど、
 人は、この回数券を早く使い切ってしまう。


 という法則が成り立つわけです。
 激しいスポーツをやる人が意外と短命であったりするのも、この理屈。過酷な労働に従事する人が短命なのも同じ理屈です。
 つまり、体にあまり負荷をかけすぎず、大事に大事に使ったほうが長生きできる、ということになるわけですね。

続きを読む

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

本日までのご来場者数
数あるclubのなかから当clubにご訪問いただき、ありがとうございます。

現在の閲覧者数:
Editing Staff
ピアノ

       編集スタッフ     

編集長 長住哲雄……主に実用書を手がけるエッセイスト&編集者。
通信員
・大北皓――西日本担当
・永沼千恵――北日本担当

         画像協力    

写真をお借りしました
・写真素材・足成
・フリー素材のpro.foto
イラストをお借りしました
・無料イラスト素材集【素材Good】
・無料イラスト配布マンガトップ

Thanks for Co-operating
当ブログの取材・編集にご協力をいただいた企業・団体、本ブログの考え方を理解して、支援してくださる企業・団体のみなさまです。ありがとうございます。

ビーグル

   仲間が見つかるコミュニティ   
★「ご縁カフェ・まつばR」

★「昼カラオケ 居酒屋みんと」

《PR》

お気に入りリンク集
訪問者はどちらから?
最新コメント
月別アーカイブ
お問合せ・投稿はこちらから
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。